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2017年2月16日更新放蕩ドラ息子が描いた「国宝」

毎年、この時期になると「熱海に行かなければ」という虫が騒ぎ出します。熱海といっても海でも温泉でもありません。「梅」です。

この「梅」は世界中で熱海にしかなく、しかも見られるのは1年のうち2月初旬~3月中旬だけ。30年以上前に初めて見てKOされてから、何度も逢いにいっていますが、何度見ても新しい発見があります。

もうお分かりの方もいるでしょう、熱海のMOA美術館収蔵品で、1年に1か月半しか公開されない絵。尾形光琳作の国宝「紅白梅図屏風」です。

 

 

二曲一双の屏風に描かれた紅白の梅と、その中央を流れる黒い川。水の流れを表す金の渦が描かれていますが、X線分析によるとなんと実際に金箔が用いられているそうです。決して緻密な写実画ではなく、描写は単純化されていて現代のデザイン画のようなリズム感がありますが、色はまさに光琳そのもの。ダークファンタジーのような鈍い金銀の妖しい光を放つ屏風に踊る梅の枝と花の配置が絶妙で、気付くと毎年のように吸い寄せられ、実物を前にすると1時間は見入ってしまいます。

光琳は他にも六曲一双の屏風図「燕子花図」(東京・根津美術館蔵)や同じ燕子花を描いた「八橋図」(ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵)など錚々たる名画を残していますが、中でもこの「紅白梅図屏風」は素人目にも存在感が段違いで、国宝に指定されています。金属顔料を用いているため褪色や劣化が起こりやすいことから観覧期間を限定していて、「紅白梅図」公開期間中MOA美術館は1年で最もにぎわいます。

作者の尾形光琳は、京都にあった呉服問屋の次男として1658年に生まれ、陶芸家として数々の国宝を残している尾形乾山は光琳の弟です。若いころから絵の才能はあったようですが、画家として世に立つようになったのは30代後半からとのこと。今でこそ名画を多く残し後に「琳派」と称される画風を興した光琳ですが、彼が生まれた万治元年は武断政治から文治政治に切り替わり、江戸文化がまさに花開く黎明期。この時期京の豪商だった光琳の実家は莫大な財産を誇りましたが、根っから遊び人だった光琳はその財産が底をつくまで使いまくって、弟の乾山からも借金する体たらくでした。

光琳の兄が継いだ実家の呉服問屋は、大口顧客の死去を機に破綻するのですが、そのあとも京都人としてのプライドが捨てきれず内外に見栄を張りまくり、着物や持ち物に贅沢三昧。妻以外の何人もの女性に子供を産ませるなど、絵に描いたような放蕩ドラ息子として悪名高い御仁でした。画業を始めたのも、見栄もあるでしょうが生活に困ってというのが一番の理由だったようです。

とはいえ、確かにセンスと才能は一頭地を抜くものがあったため、貨幣商人や御公家さまをスポンサーに得て、40代後半から画家として評価を確立するようになります。一方で放蕩ぶりは年を経ても全然改まらず、稼ぐ以上に使う生活で経済的には常に困窮していたといいます。

スポンサーを頼って江戸に引っ越し、あちこちの大名家や公家に絵を売っては遊び、を繰り返したのち、京都に戻って描き上げた「紅白梅図屏風」は光琳晩年の作品といわれます。ドラ息子が放蕩と生活苦の末にたどり着いた境地が、紅白の梅に挟まれた黒い淵。それが後世になって国宝の高みに引き上げられ、相模湾を望む熱海の崖に穿たれた白亜の美術館で大観衆を喜ばせるとは、光琳自身夢にも思わなかったでしょう。

人は誰にも光と影の両方があり、その対照が際立つ人ほど毀誉褒貶も激しいものです。最低クズ野郎が描いた至高の傑作は、毀誉褒貶ほどほどの私のココロを今年もつかんで離しません。(川久保)

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