ピルツジャパンのブログ「月刊 裏ピルツ新聞」

2017年12月20日更新It’s a SUMO world.

横綱日馬富士が元力士になってしまった、今年の九州場所。力士同士での暴力があったとのことで、もとより暴力沙汰は違法行為ですから、よくないことであることは間違いありません。

一方で、どうも気になるのは「相撲とはかくあるべし」というべき論が盛り上がりを見せる中、清廉潔白・純粋無垢な競技・スポーツとしての相撲「だけ」を希求するかのような意見が多く見られることです。相撲に競技としての側面があるのは言うまでもありませんが、相撲は単なるスポーツではありません。大相撲の源流は五穀豊穣を望む神事として神社で行われる勧進相撲です。勧進というのは神社仏閣建築・修復費用の調達を目的とした興行であり、相撲は競技・神事・興行の3要素が備わって初めて成立します。どれ一つ欠けても、それは相撲ではありません。

ところが、今回の一件をスポーツマンシップのみで断じる意見が多く見られ、他の2要素は完全に蚊帳の外に置かれています。日馬富士が貴乃岩に暴力を振るったことはまず間違いなさそう(被害者は公に何も語っていませんが)であり、それ自体は糾弾されるのも当然と思う一方、土俵の上では何十発張り手を加えても暴行罪に問われることはない相撲の力士が、居酒屋で鉄拳制裁を科した一件で廃業にまでエスカレートする状況に大いに違和感を覚えます。

「しつけと称して殴るなんて絶対ダメ」というのは、我々素人の視点です。リモコンなんて使わずとも、体重200キロ超の関取が本気で繰り出す相撲の張り手を常人が喰らったら、まず脳震盪くらいでは済みません。相撲は格闘技であり、格闘技の本質は暴力を見世物にする興行です。それを否定したら、法律でさえ認めているあらゆる格闘技は成立しません。(刑法では当事者同士、観客との間に競技規則という「合意」があり、スポーツとしての正当業務行為であって、規則に従っていれば殴ろうが蹴ろうが、あるいはその結果死んでしまっても傷害罪や傷害致死罪には問われません。)つまり、同じ日本という国の中で、刑法が土俵の外と内で適用されたりされなかったりする「二重基準」が公式に採用されています。「どんな理由があっても暴力はよくない」という理屈に照らせば、本来この二重基準自体が許されないものですが、そこは「グレーゾーン」として公に認められているのです。

「スポーツである以上、正々堂々、真剣勝負を見たいと全観客が期待している」という意見もしばしば聞かれます。真剣勝負ということは手加減なしですから、横綱白鵬が繰り出す「かち上げ」や「張り刺し」といった立ち合い技も、ルールで禁止されていない以上は当然のごとく許されるべきと思いきや、自称相撲ファンの多くが「横綱のくせに勝ちだけを狙って危険な立ち合いをしている」と憤慨しています。真剣勝負が見たいのか、それとも清廉潔白で退屈でも安全な取り組みが見たいのか、真意はどちらなのでしょうか?

少し前に、大相撲でいわゆる「八百長問題」が発覚した際にも、実は同様の違和感を持ちました。「相撲に八百長が存在するとはとんでもない話で、絶対に排除しなくてはならない!」という大合唱が連日繰り広げられ、多くの関係者が処分された結果、大相撲の人気が長く凋落する結果を招いたことはご記憶に新しいと思います。

みなさんは「給金相撲」というのをご存知でしょうか?7勝7敗で千秋楽を迎えた力士の勝率は歴史的にとても高いのですが、これは勝ち越すことでもらえる報奨金があるからです。最終日に勝ち越せば、給金がもらえ番付を落とさず済むため、この一番を「給金相撲」と呼んでいます。何としても勝ち越したい力士に対して、相手力士が白星を譲ってやる。もちろん、それと悟られない形で。こうした「人情相撲」(出来山ともいう)は、「佐野山」をはじめ多くの講談や落語で描かれてきました。もちろん、それを指して「八百長だ!」などと騒ぐ輩は野暮の極みと罵られてきました。

相撲は、立ち合いからして力士同士の「阿吽の呼吸」で始まります。勝敗は行司が軍配を上げますが、微妙な取り組み結果の場合は審判団の物言い、つまり合議で決まります。間違ってもビデオ判定など行われません。相撲はすべてに「呼吸」で決まることになっていて、人情相撲もその「呼吸」の結果と言えるでしょう。本場所では勝敗にこだわるのに、地方巡業では勝敗は話題にもなりません。巡業は「本気」ではなくてもOK、というのも暗黙の了解、「呼吸」ですよね。そうした「呼吸」をすべて排除して白黒はっきりつけ、本場所でも巡業でも星あたりいくらのファイトマネー制にし、ゴングで始まりビデオ判定を導入すれば「公正」で「真剣」で「清廉」なSUMOが見られるかもしれませんが、それはもはや相撲とは呼べない代物です。

そして、他の「競技」然としたスポーツであっても、いつも全力投球の真剣勝負ではありません。プロ野球の消化試合はご存知の通り真剣勝負とは程遠いものであり、メジャーリーグでも大差がついた試合後半に野手が投手としてマウンドに上がるシーンはよくある光景です。イチロー選手も2015年のシーズン最終戦で、ピッチャーとして2回を投げています。メジャーではシーズン中のスケジュールが超過密で、20日20連戦なんてこともあり、点差が開いて逆転の目がない試合で投手を疲弊させないために、野手をマウンドに送ることは普通にあるのですが、この日のイチローはあくまでも興行のために登板しました。シーズン最終戦で順位も確定している中で、観客もめったに見られない「ピッチャー:イチロー」を見られて大喜び。スポーツマンシップにのっとれば「野球を舐めてる」「真剣勝負しろ」という声も上がりそうですが、スポーツであると同時にエンターテイメントでもあるMLBを愛するファンは、そんな野暮なことは言いませんでした。F1グランプリでも、すでにシリーズ優勝が決まったドライバーが二位を走る別のドライバーにゴール直前で道を譲り優勝させるシーンは何度も見ました。

何よりも文字通りに「真剣勝負」を求めるならば、剣道における防具は必要ありません。竹刀は許さず日本刀のみ許可し、自他ともに死をも辞さない覚悟で臨む勝負であるべきです。相撲ならば場所優勝を目指す以前に、目の前の取り組みで相手のダメージを考えずに全力で張り手を加え、土俵外に投げ飛ばす。それが現代に合っているかどうかなどと議論するなら、すでに「真剣勝負」ではないのです。

世の中、パンダのようにシロクロはっきりつけられる物事ばかりではありません。

神社に神様がいるか?

アイドルはトイレに行くのか?

三種の神器は存在するのか?

サンタクロースはいるのか?

バージンロードはバージンしか歩けないのか?

これらを論理的にシロクロはっきりさせれば気持ちはスッキリするかもしれませんが、盗んだバイクで走り出す15の夜ならともかく、はっきりさせると都合が悪いオトナは誰も訊かないでしょう。これ以外にもグレーゾーンはたくさんありますよね。

そもそもがいい加減な人間がグレーゾーンを設けて取り組むところに、ゼロイチだけでは語り切れない人生の妙味があると思うのです。いかに厚顔無恥な私(川久保)でも、人生を通して自分は真っ白であり続けたなんてとても、いえ絶対に言えません。

同じことが「安全」にも言えます。さきほどF1の話をご紹介しましたが、稀代のカリスマだったアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死してから、「F1も安全でなければならない!」という声が強くなり、タイヤや空力装置を含め多くの安全対策が義務化されました。結果的にF1での事故死は激減しましたが、一方で昔のF1を知るファンの目には「安全すぎてつまらない」別物になってしまったという意見がもっぱらです。確かに安全は大切なのですが、一方でF1はワールドカップと並ぶ世界最大級の興行で、退屈になったF1はTV視聴者が激減し、サーキット観客数も右肩下がりになってしまいました。

一般車では1Gさえ体験できないのに、F1では5Gを超える強烈な力で前後左右に揺さぶられる極限状態のなか、時速300kmに迫るスピードでさえガードレールと数センチの距離にまで寄せられる超絶テクニックを駆使し、限界ギリギリで危険を冒して走る、手に汗握るスリルがF1の真骨頂。安全を優先すれば魅力は大きく減ってしまいます。最大の利害関係者であるドライバーでさえ「我々はテクニックを見せるだけでなく命を懸ける代わりに高い報酬を得ているのに、こんなマシンではお客さんを楽しませることはできない」と言い出す始末。そもそも、安全を優先するなら危険なレースなどやらなければいいのであって、とてつもなく危険だからこそ10億人を魅了するエンターテイメントになり得るのです。

危険なもの、猥褻なもの、邪悪で汚れたものを否定するだけでこの世から消えてなくなれば苦労はありません。陰陽は表裏一体、闇が濃く深いほど、光は明るく輝きます。

ISOで定められた「安全」とは、「受け入れられないリスクがないこと」であって、「リスクゼロ」ではありません。どこまで突き詰めても、リスクをなくすことは不可能であり、リスクゼロは幻想だという前提に立っているのです。

結局、多くの方は安全そのものを求めているのではなくて、安全という「言葉」が大好きなのだと思います。あるいは「全力投球」、あるいは「真剣勝負」、あるいは「完全燃焼」も、本当の真剣勝負や再起不能なまでの完全燃焼が見たいわけではありません。そして、それらの言葉が好まれる理由も「大切だから」ではなく「みんな大切だと言っているから」に過ぎないのではないしょうか。相撲の「八百長」や「暴力沙汰」が何故いけないか?「みんないけないと言っているから」で思考停止すると、本質を見失う恐れがあります。

もちろん、相撲に「八百長」などは存在しません。「出来山」や「人情相撲」はあっても、八百長などというものはないのです。そんなの言葉遊びじゃないかって?いやいや、せめて言葉の綾、人情の機微といってください。それこそが阿吽の「呼吸」で成立するSUMO Worldなのですから。いろいろと綺麗ではないグレーな世の中、言葉とアイドルくらいは清く正しくあってほしいものです。

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