ピルツジャパンのブログ「裏ピルツ新聞」

2023年3月15日更新先人の偉業と教訓そして実践

 「豊田章一郎さん(トヨタ名誉会長97歳)死去」と2/15の中日新聞朝刊のトップ記事が掲載されました。現役時代、直接仕事をすることは無かったのですが、同じ時代を一従業員として歩んできたものとして一抹の寂しさと感慨深い気持ちが湧いてきました。新聞やネットの記事を読みつつ間接的ではあったが多くの教えや夢に向かって実践してきたことが“走馬灯”のごとく浮かんできました。(大変失礼なことですが‧‧‧)先人の足跡や教え等について振り返りつつ、私が実践してきたことと関連付けてほんの一部ですが紹介します。低迷が続いている日本の現状をどのように打開していくのかヒントの一つにでもなればと思います。

 ※引用:中日新聞(2/15,2/16)  

 ※名前の呼び方などで失礼があるかと思いますがご容赦ください。※文責:古澤登

1.代表的な足跡

(1) 豊田章一郎さんを一言で言うと‧‧‧

 中日新聞(取締役、前編集局長・鈴木孝昌氏の記事)から、哲学者「梅原猛さん」(父親がトヨタの役員だった)のことばを紹介していた内容を引用させていただくと、

「“豊田佐吉、喜一郎、章一郎の三代の奮闘努力によって日本人はいかに富を得ることができたであろうか。日本が経済大国になり得たのは、彼らが幾多の困難に挑みながら、その利を日本人全体に及ぼしたゆえんでもあろう”とたたえている。三代がともに世を去り、トヨタと日本の産業史にとっての、大きな一幕が下ろされた。」とあります。

他にも日本産業の復興のために多くの著名な経営者がいたのですが、その中でも忘れてはいけない人たちだと思います。 

(2)「世界のトヨタ」を築く

 佐吉翁が発明した自動織機の特許権を英国企業に売ったお金で、喜一郎さんが当時では無理と言われた自動車づくりを「日本人の頭と腕で自動車をつくる」という信念で決意をしました。その後、戦争や戦後の不況や労働争議等の課題を乗り越え、昭和30年中頃に当時ではあり得ない規模の「元町工場(元・町工場(もとまちこうば=“工”匠のいる場)」を日本のモータリゼーションをつくったといわれる故・豊田英二さん(章一郎さんとは従兄弟)とともに建設しました。建設委員長が章一郎さんでした。そして昭和40年代後半のオイルショック、50年代の排ガス規制、トヨタ自動車工業と自動車販売の合併(争議前の状態へ戻した)を成し遂げ、初代トヨタ自動車社長になりました。アメリカとの貿易摩擦などを乗り越えるために両国政府に提案をして、昭和59年はじめて米国での生産活動に踏み込みました。当初はGMとの合弁会社“NUMMI” 工場を建設。その後、ケンタッキー州やカナダで現地生産を発表するなど現在の「世界のトヨタ」の足場を築いたのが豊田章一郎さんの時代と言われています。

(3) 財界の総理と言われる「経団連会長」就任

 私のうろ覚えだが記憶にあるのが「田舎企業のトヨタはあまり表に出ない」と言う考えの時代だったと思う。前任の東京電力会長の故平岩外四さんなどからの要請によって、自動車業界初の経団連会長となったのが、バルブ崩壊後の日本経済の低迷期だった頃で「平時よりも、経済界の波乱の時」に力を発揮した財界人だったと記事にあります。

 私が「緑十字賞」をいただいたときの中災防・会長(経団連会長が兼務)が豊田章一郎さんでした。賞状に私の名前と章一郎さんの名前があり、会社ではなかなか表彰してもらう機会がないだけにとても嬉しかったことを覚えています。良い思い出です。

(4) 愛知万博(愛・地球博)成功の立役者

 現在建設され一部公開されたジブリパークの地で、2005年に開催されたのが、愛知万博でした。「国家事業として私がお役に立つならと承諾した」「“章一郎さんがいなければ成功しなかった”と誰もが口をそろえる」と記事にあります。「自然との共生に向けた姿勢と成果を全世界に示す場」と語っていたとも記されています。まさに現代のSDGsであり、時代の先取りであったと思います。そして「愛知」を世界に知らしめたと思っています。

  私は、家から近かったこともあり、万博会場へ数十回は行き世界とのつながり、平和のありがたさ感じつつ楽しませてもらいました。終了後は、しばらく「万博ロス」になった記憶があります。懐かしいです。

(5) ベースにある考え方の一部(私の個人的考え方・想像です)

 関係者の記憶にある言葉として紹介されたことから引用すると

・「会社のためだけでなく、従業員のため、お客様のためを思った行動をとりなさい」

・「企業は、自分たちが努力で培った技術をもって社会に貢献すべきだ(人まねや金儲けでは世のためにならない)」

・「頑張っているときに、言葉じゃなくて立ち居振る舞いで励まされた」

ご本人の挨拶記録から

・「トヨタが大企業だなんて思ってはいけない。もうこれでいいんだと思った日から企業は衰退する」

「日本には、資源は人材しかない。人間の持つ知恵と技、技術と技能以外によって立つ基盤はない。得意技であるものづくりをベースに技術立国、産業立国を目指すことが21世紀に向けた唯一の戦略ではないか」

・日本における最も重大な課題は教育だ。自分で考えることができる独創性のある人財を育成したい」(中高一貫校海陽学園 新説発表時)

・「モノづくりは人づくりの信念、情熱を次世代に引き継ぐこと。これが私の役割だと思っています」(故豊田英二さんお別れの会)

※ どの言葉も、広くそして先々を考えていることが伝わります。「トップの考え方が会社の器」とも言われますが、そういう人がトップの時代に一緒に仕事ができたことが私の誇りでもあります。

2. “教え”の実践記録を振り返る(私の履歴から)

 上記内容は、新聞などからの引用ですが、これだけを読んでも先人達がどのようにして一企業のみならず、日本を豊かにしていくかを考えて経営をしていたかが分かると思います。常に時代を先取りして方向を示し、挑戦をしてきたかが私自身、改めて強く感じました。

  私の知る限り、トヨタは会社の中にいるだけで教育されている、まれな会社だと改めて思います。私が歩んできた中の出来事を少しだけ触れてみたいと思います。

(1) 「労使相互信頼」と言う考え方の伝承

  TBSテレビのドラマ「リーダーズ」(Amazonで購入できます)を見た人は記憶にあると思いますが、トヨタは昭和25年頃、戦後不況の中、大争議で会社存続が危ぶまれていました。結果は、喜一郎社長以下役員が退陣、従業員も予定以上の人が退社するなど「残る人・去る人ともにこんな辛いことは二度とあってはならない」と言う気持ちになったと先人達に聞きました。大争議の約10年後、画期的な「労使宣言」が調印されました。その中に「自動車産業の公共的使命を自覚し‧‧‧日本のトヨタから世界のトヨタへ向かって‧‧‧労使ともに相たずさえて努力する‧‧‧」(抜粋)とあり、「労使相互信頼」という考え方が確認されたのです。「経営者は、従業員をあざむいてはならない」「労使は車の両輪である」という考え方も確認されています。私が労働組合専従役員(30歳前半の若造)だったとき、退職する何人もの人が大争議時代の“秘話”を含めいろいろと話してくれました。「この教訓をお前が言い伝えろ」と言い残していきました。「エッ私が‧‧‧」と思いましたが、一念発起して、職場役員約2,000人の平日の合宿研修(組合離業)を会社へ提案、即OKとなり実施することになりました。組合の立場で「当時の労働争議のつらさと“労使相互信頼”の基盤の大切さ、トヨタ労使の役割」について大争議を経験していない私が生意気にも(勿論、勉強をしましたし、先人の話も聞きました)語り続けました。年間50週泊まりがけの研修をしていたのではと思うくらいやりました。私が専従役員だったときの社長が豊田章一郎さんでしたが時代も厳しく一組合役員としてより良い会社としていくためにと言う強い思いの中で、かなり激しい労使交渉をしたことを覚えています。その議論こそが結果として理解を深め合い、車の両輪として強固なものになっていったという実感もありました。今の私の基本を形成した時代だったと思っています。

(2) 海外工場の安全指導

組合専従の時に「NUMMI」(GMとの合弁会社)へ出張しました。初の海外での工場建設で、生産立ち上げを経験する職制や現場の人たちが悩んでいる、スタッフが厳しい環境でやっているなど課題も多く、現地で働いている人たちの現状調査と組合員との対話(現地へ行くことが大きな狙いだった‧‧‧)が目的でした。会社の人事と一緒になって生産立ち上げに奮闘したことを今でも思い出します。また、会社で安全担当をはじめて5年くらい経ったときでした。ケンッタキー工場が稼働したのですが、災害が多く(特に疾病)現地の社長に呼ばれて指導に行きました。安全衛生スタッフが海外工場の指導をすることは会社としても初めての事でした。相手の立場を重んじて良いことは褒め自信をつけてもらうこと、日本で良い結果が出た活動を米国流にする方法を伝えることで、結果として災害が大きく減少したのです。翌年もまた行きましたが更に災害が減少しました。その後、中国、英国、フランス等へも指導に行きましたが不思議と私が行った後は災害が減少しました。すごいことだと多くの人に言われましたが本人は今ひとつピンときていませんでした。少なくとも現地現物で相手の気づきを引き出すという、今も実践していることができていたのかなと思います。組合活動で現場の人の意見をしっかり聞き、活動に活かすという経験や先人達の教えがどこの国でも活かされたのだと思いました。「世界のトヨタへ」私としても小さな貢献ができていたのかなと思っています。

(3) 教育に対する思い入れ

  「モノづくりは人づくり」「人間がモノをつくるのだから、人をつくらねば仕事も始まらない」という体にたたき込まれた考え方を基本に、機材やミニラインなどを配置した安全衛生教育センターをつくり、実践に直結するような管理者(安全活動を通じたマネジメント)研修を企画し実施しました。四半世紀たった今でも継続されるような場と体制を作り上げたことも先人の教えや応援があったからだと思っています。そして自らが「安全活動の語り部」として講師となり、そして多くの講師を育成することを心がけてきました。結果として、災害を減らすだけの安全活動ではなく、「現場目線」での、ムダや無理な作業を減少するための本質安全化活動の推進によって、更なる企業体質の向上や、活動のプロセスを通じた人づくりを展開することができました。そして今でも多くの企業の指導をさせていただき、ここでも多くの仲間が増殖(ある会社の役員が使ってくれた言葉)しています。

 

  今回は、故豊田章一郎さんの死去という訃報に接して、今まで知らず知らずのうちに教えられていたことを強く思いその一端を書いてみました。これから「どうする日本!」(NHK大河ドラマ“どうする家康”を真似しました)「これからどうする“皆さん”」という視点で考えていただけると嬉しいです。

 

追)私は、常々、きっちりとした実践に結びつく安全衛生教育の充実が各企業の課題だと思って提案をして、構築してもらってきました。そうした内容を2/8日本能率協会主催の「産業安全シンポジウム」教育のセッションで話す機会を得ました。その内容を記事にしようと考えていたのですが、急遽変えました。また機会があれば書きたいと思います。

 

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