2017年2月16日更新「安心」と「安全」は違います
小池百合子氏が第20代東京都知事に就任して半年が過ぎましたが、依然話題には事欠かずまさに「嵐を呼ぶ女」の面目躍如です。その中でもやはり豊洲新市場の話題は様々な議論を呼んでいて、とっくに移転完了し初セリを済ませているはずだった新市場への移転は、彼女の鶴の一声で延期となり、移転時期は今も「未定」のままです。移転延期の最大の理由は、小池知事就任後に発覚した「土壌汚染」「地下水汚染」という穏やかでない事態が判明したためですが、報道を含め、この「汚染」という議論の中にある「安心」と「安全」の混同に、当社が扱う機械安全と通じるものを感じたため、政治とは異なる「安全」のお話としてご紹介します。
そもそも、現在の築地市場はなぜ移転されなければならないのかといえば、一言でいうと「古すぎて危険」だからです。1934年、つまり80年以上前に建てられた築地市場は老朽化が激しく、耐震性だけでなく防火性も長らく問題視されています。壁や金具が頻繁に落下するほど劣化が進んでいます。残存アスベストの問題も影を落としており、今までに400億円以上かけてアスベスト対策を施してきているのに、今も約20%のアスベストが未処理のまま残っている違法建築物です。食の安全もさることながら、落下物とアスベストは市場で働く人々の安全を日々確実に脅かしています。
耐震性がない築地市場を直下型地震が襲ったら建物全てが崩壊する可能性があります。さらに、元々鉄道輸送を前提に作られた構造は、トラックへのシフトに対応していないため、市場内の車両動線は毎日大混乱し、市場内での事故も多発。2015年の統計では、あの狭い築地市場内で物損事故263件、人身事故109件が発生しています。
これらは豊洲とは無関係に築地の「いまそこにある危機」なのですが、不思議なことに豊洲の問題は指摘されても築地の問題はほとんど報道されません。しかし、実際に顕在化しているリスクであり、かつ客観的に全く許容できないリスクなのです。
一方で豊洲市場です。こちらは建物自体は最新鋭ですから当然壁の崩落はありませんし、すでに使用が禁止されているアスベストはゼロです。最新の耐震基準を満足した耐震性は築地とは比較になりません。道路や通路の構造もトラックやターレットトラックを前提に設計されており、交通の動線は飛躍的に改善します。これらにも色々異論があるようですが、少なくとも築地との比較で豊洲が劣位に立つことはなく、客観的には文句のつけようがありません。
新国立競技場建設費は2500億円で落ち着きましたが、豊洲市場は実に6000億円の巨費を投じているのですから完成度の高さは当然です(なお6000億円はパラグアイの国家予算に匹敵)。ところが、良い建物ができた、さあ移転しよう!という段になって、豊洲市場の地下ピットにたまった水の成分を調べたら、怪しげな成分が続々検出され、騒動が持ち上がってしまいました。
何度か行われた地下水のモニタリング調査ですが、2017年1月15日の調査結果では有害物質であるベンゼンが「環境基準値の79倍」検出されたと発表され、それ以前の結果から大きく跳ね上がっただけでなく、これまた印象の良くないシアンも検出され「豊洲は危ない!」というイメージで連日報道されています。
ここで注意したいのが「環境基準」です。これは何の基準かというと、「飲料水」の基準なのです。人の身体に直接入る水の基準は厳しくて当然ですが、今回の地下ピットの水は飲料水はおろか清掃用にさえ使われません。あくまでも「念のため」に行った検査であり、豊洲市場で扱う生鮮食品とは将来にわたって縁のない地下水に、なぜ飲料水の環境基準を適用して発表したのか理解に苦しみますが、場内洗浄や活魚用水は最新型海水濾過プラントから送り出されますので、地下水は関係ありません。事実は「安全」であることに議論の余地はないのです。
一方、築地市場の「水」はどうなのかというと、場内洗浄や活魚用水(生きた魚を入れるいけすの水)に使われている濾過海水から、2015年に発がん性物質である「トリハロメタン」が環境基準値を超えるレベルで検出されています。こちらは皆さんの食卓に直接影響があり、まさに「危険」といえますが、築55年経過した海水浄化装置は非常に大規模なもので、営業しながらの改修作業は不可能なため、現在もそのまま放置されています。
二つの市場で安全性を比較した場合、豊洲に軍配が上がることは明らかです。むしろ築地に居座るリスクは極めて大きく、安全性だけを考えても即座に移転を決断する必要があります。
なぜ移転しないのか。理由は「豊洲では安心できない」からです。“安全であっても安心できない”豊洲より、“危険だけど安心できる”築地の方がいいという意見が今のところ通っていることになります。そもそも築地が危険という認識は広く共有されていません。
移転を決断しない理由は、小池知事によるほかありませんが、それが今夏の都議選と関係あるかどうかは別として、今回の本題である「安心」と「安全」の混同は、当社が日常的に直面するお客様の課題でもあります。
ほぼすべての産業現場で「安全第一」は謳われています。一方で、実際に安全かどうかを現場で評価するリスクアセスメントでは、到底安全第一とはいえない工程や設備もたくさんあることに驚かされます。具体的には、非常停止スイッチまたはライトカーテンなどの安全設備は設置されているものの、それらが接続されているのは安全リレーや安全PLCではない、などが多く見受けられますが、これらはISOなどの規格に照らせば「安全」とは認められません。
しかし、そういう現場のお客様は「安全設備さえあれば安全だろう」と考えておられるため、安全または危険の定義を明確に理解されていません。そして、安全設備さえないところでも「今まで何もなかったから、これからもない」と思い込んでいるケースも多いです。なぜそうなるのか。
心理学用語で「認知バイアス」という言葉があります。認知バイアスとは、客観的な事実や情報が思い込みや直感などの心理的要因で歪められた結果起こる、不合理な選択のことです。「あの人の言うことだから間違いない」「美人は性格悪い」や「糖質制限しているので脂肪を採っても太らない」など、人間は思い込みや都合の良い解釈を元に日々さまざまな判断を下しています。認知バイアス自体は、脳科学的にはむしろ正常な反応で、バイアスがない場合、あふれかえる情報を元にすべての行動を論理的・合理的に判断していく必要に迫られることになり、現実社会での生活が送れなくなってしまいます。
たとえば、国土交通省が社会資本整備審議会に示した資料では、年間交通事故死傷者数と総人口に事故遭遇率を掛け合わせた結果、一生(80歳と仮定)のうちに交通事故に遭う確率は53%と算出しました。つまり、二人に一人です。おそらく、読者の皆さんが考える事故確率より圧倒的に高いのではないでしょうか?「外に出れば、53%の確率で交通事故に遭う。死ぬかもしれない」とわかれば、合理的に考えると外出するのは相当リスキーですよね。何せ二日間で見ればどちらかの日に事故に遭うのですから。
でも、おそらくはほとんどの人(引きこもりや物理的または法的?に行動が制限される方々を除いた全員)は「・・・まあ、でも多分大丈夫だろう」と考えて、今日もリスクだらけの外界へとでかけるわけです、何の根拠もなく。そうしないと生活できませんので、それは正常なことなのですが、これが認知バイアスです。
そう考えると、世の中はバイアスに満ち満ちています。厚生労働省が2008年に発表した資料によると、食中毒患者数は年間20,000~30,000人おり、その半分以上がノロウィルスなどのウィルス患者です。最近は高齢患者が重篤化し死亡するケースも報告されています。ノロウィルスは85~90℃で90秒間以上加熱すれば死滅しますので、生食品を食べなければ罹患の危険性は大幅に減らせるのですが、生食品をやめましょうという話にはなりません。
また、食中毒患者の1割はフグやキノコなどの自然毒ですが、これまたフグ禁止とかカキ撲滅なんていう話も聞きません。年間数十人が亡くなる食品添加物を世に出したらメーカーは確実に存亡の危機ですが、一方で消費者は自然食品にはずいぶんと寛容で、毎年数千人が食当たりを起こしても平然とリスクを受け入れています。これまた「自然はしようがない」という認知バイアスですね。
なお、「自然は体にやさしい」というのは全く非合理で、ジャガイモの芽に含まれるソラニンはたった0.15gで激しい中毒を起こしますし、水にも致死量はあって実際に水中毒で亡くなった事故もあります。そもそも焼き魚や焼肉は自然界には存在しません。本当に自然な食品を求めるのなら、捕獲した植物や獲物を加工せず生食するに限りますが、そんなワイルドすぎるナチュラリストはたぶんいないでしょう。
食品に関するバイアスはたくさんあるので、また別の機会にお話ししたいと思いますが、世の中万事ご都合主義であり、そこには認知バイアスが働いています。リスクはあっても認知バイアスで無視しているのです。
確かに、ゼロリスクは幻想です。どれだけ安全対策を講じてもゼロリスクにはならない以上、「どこまで」で手を打つか、が次善の策です。
翻って、産業現場ではどうでしょうか。安全第一のスローガンのもと、五原則に代表される安全教育が徹底され、安全帯や安全靴の着用は義務付けられ、そこかしこに安全の二文字が踊っていますが、産業事故は減っていません。労働災害統計では、製造業での「はさまれ・巻き込まれ」事故死傷者数は毎年約7千件、死亡者数も60~64件とほとんど変わらず推移しています。毎週どこかの工場で一人は亡くなっている計算です。
数多くの現場を見てきた身からすると、多くの現場では「リスク」さえ認識されていないため、「どこまでリスクを許容できるか」は判断されていません。「これだけやっておけば大丈夫だろう」「今まで事故が起きていないから大丈夫だろう」というバイアスが働きます。リスクを認知すると安心できなくなることもうすうすわかっているので、安心したいがためにバイアスを働かせてリスクは無視しておこう、というわけです。築地市場に留まる意向と同じです。
残念ながら、安心と安全は同じではありません。むしろ相反することさえ多くあります。安全を突き詰めることは、現実の危険を測り安全対策の限界を知ることなので、究めるほどに安心できなくなります。それが結果的により安全な環境を生むのです。
築地市場の危険性は目を背けたい不都合な真実ですが、目をつぶって得られる安心は認知バイアスであり、根拠のない幻想です。安心という幻想がある日突然無慈悲に破られることは、震災などの天災や原発事故で皆さんよくご存じかと思います。
東日本大震災発生時、石巻市の津波犠牲者は62.3%が自宅で被災しています。速報最大波到達時刻は地震発生の34分後ですので、逃げる時間はありましたが、6割が逃げなかったことになります。寝たきりの方もいましたが、大半は「わかっているけど多分今回も大丈夫だろう」という認知バイアスが働いたことがわかっています。築地市場の入場者数は一日42,000人、首都直下型地震が起きれば、築地市場は未曽有の大惨事を引き起こしかねません。
安心=慢心というシビアな現実を見つめれば、安心ではなくても安全な豊洲新市場への移転は不可避である以上、小池知事には都議選より都民の安全を優先する「蛮勇」を期待したいところです。
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