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2018年7月17日更新洋式競馬発祥の地と「天野喜孝展 天馬」

先月のとある週末、私は日本で初めての本格的な洋式競馬場となった根岸競馬場(のちの横浜競馬場)の跡地にある「馬の博物館」を訪れました。

第二次大戦前に閉鎖をし、以後再開することはありませんでしたが、もともと居留外国人の娯楽の場であった根岸競馬場は、やがて日本の皇族や財政界の人たちが集まる社交場・外交の場として発展を遂げていきました。日本各地に広まった競馬場のモデルにもなっています。

戦後は連合軍が、のちに米軍が使用し、1969年(昭和44)に一部の接収の解除を受けて横浜競馬場(昭和12年に岸根競馬場から改名)は、馬についての知識を普及するための施設として生まれ変わります。現在は、敷地の大部分が根岸森林公園となり、その中に「馬の博物館」や「ポニーセンター」があります。(当時と現在を重ねた地図を見ると、競馬場トラックの内側部分がほぼ公園となっている様子)

幕府の手によって根岸競馬場が完成したのは1866年12月(慶応2年11月)のこと。翌年1867年1月には競馬が開催されました。京都の二条城で大政奉還が行われたのが同年の11月ですので、まさに時代の大きな転換期に日本初の洋式競馬場はスタートしたのでした。

それまでの間も居留外国人たちは、海岸を埋め立てて造られた土地(吉田新田=現在の山下町、中華街あたり)で競馬を楽しんでいたのです。現在の元町で行われた競馬について書かれている記事がもっとも古いようなのですが、その日付を知ってビックリ。なんと1860年10月(万延元年9月)とのこと。横浜が開港したのが1859年7月(安政6年6月)ですので、なんと開港してから1年後には、元町で外国人たちは競馬をしていたのです。

そんな様子を見ていた当時の日本人はどう思ったのでしょうね。やはりあまり良く思わない人もいたのでしょうか。幕府公認で競馬の場所を確保していたとはいえ(山下町での競馬場は、薩英戦争へと発展した生麦事件の賠償の一部だったとか)、そして競馬が原因ではないのでしょうが、社会が大きく揺れ動いていた時代です。相次ぐ事件に居留外国人たちは身の安全を確保すべく、馬場を転々と移動させます。そして、最終的に根岸の地に建設することとなったようです。

根岸競馬場の運営にあたり、イギリス人主導の「横浜レースクラブ」が発足しました。その後、横浜レースクラブに不満を感じた外国人たちが1876年(明治9)には「横浜レースアソシエーション」を作り、2つの組織が運営する状態になります。

居留外国人の競馬の様子(1870年(明治3)頃)[馬の博物館 展示品]

しかし両者とも経営が上手くいかず、解散してしまいます。この両者の仲の悪さを風刺したこんな画まで当時の雑誌に登場しているのですが、おそらく仲裁をしているのはお侍の格好をしている日本人。その頃の根岸はインターナショナルですけれど奇妙な世界が繰り広げられていたようですね。

イラストレーテッド・ロンドン・ニュースの特派員であるチャールズ・ワーグマンが創刊した、日本初の風刺雑誌「ジャパン・パンチ(Japan Punch)」に掲載された風刺画
[
馬の博物館 展示品の写真を基に作成]

 

初期の根岸競馬では、外国人は大使や領事、商社の幹部など、そして日本人は皇族や財政界の人たちが主要メンバーとなっていました。その日本人たちの中から、有名な方々をご紹介します。

  • 松方正義氏 1835年(天保6) ~ 1924(大正13): 内閣総理大臣第2代と第4代を務める。多くの競走馬を所有し、馬産の改良にも力を尽くされた。
  • 伊藤博文氏 1841年(天保12) ~ 1909年(明治42): 初代内閣総理大臣。根岸競馬では「金掘」という馬が出走。
  • 西郷従道 1843年(天保14) ~ 1902年(明治35): 西郷隆盛の弟。日本人で初めて横浜レースクラブのメンバーに。「ミカン号」という持ち馬が1875年の秋に優勝。日本レースクラブの発起人の一人。

いずれの方の写真も、所蔵先が横浜開港資料館や国立国会図書館などにありまして、あいにくこちらでは掲載できませんでしたが、西郷従道氏はお兄さんと同じ立派な眉と目力が似ています(ネット検索すると出てくると思います)。横浜レースクラブの日本人初の会員になっただけでなく、自分の馬を優勝させるとは、さすがです。私は「ミカン号」という馬のネーミングがすごくいいセンスだと思いました。

こちらも雑誌「ジャパン・パンチ」に載った挿絵で、ミカン号の勝利を報じた際の「Mikan wins(ミカン号の勝利)」というタイトルの挿絵なのですが、傑作だと思いませんか?騎士の西郷従道氏の顔がミカンに似せて描かれているのです。

ジャパン・パンチ 187511月号 [馬の博物館 展示品]

また、根岸競馬では明治天皇の競馬天覧もありました。明治天皇のご行幸は1881年(明治14)から計13回も行われ、最後の競馬天覧(1899年)は不平等条約が改正された年でした。その当日、居留地在住民総代の上表文が披露され、居留地の住民たちから大きな歓迎を受けたとのこと。国際親善に大きく影響を与えられたようです。

天皇賞のルーツもここにあります。ブロンズのミカド・ベーシズ(壺)が優勝賞品となった「MIKADO’S VASE RACE」が1880年(明治3)に行われ、それ以降も御下賜品を賞としたレースが行われていたそうです。当時の英国大使は日本レースクラブの会頭も兼任しているのが習わしだったようで、英国大使が宮内省と協議をし、1905年(明治38)には後の天皇賞となるエンペラーズカップ(帝室御賞典競走)が始まりました。

1908年(明治4159 帝室御賞典競争 実施当日の様子 [馬の博物館 展示品]

まるで映画のワンシーンを見ているかのよう。当時の競馬場はなんとも華やかな世界だったのですね。先述のとおり、横浜競馬場(根岸競馬場)は戦争を機に終わりを迎えてしまいますが、その後も日本の競馬は大きく発展していったことは、言うまでもないと思います。

 

現在、馬の博物館のお隣にある「ポニーセンター」では、2009年の天皇賞(春)で優勝したサラブレッド「マイネルキッツ」に会うことができます。他にも、中山グランドジャンプで優勝した「マイネルネオス」をはじめ、ベルギー生まれの馬から、日本在来馬、ポニーたちが飼育されており、馬場に出ている時など自由に見学ができるとのこと。日本在来馬の中には、同じくあの「ミカン」の名前を持つ、栗毛の馬がいるんですよ。【ポニーセンターの馬たち:http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/pony/pony.html

自分も子供のころに、ポニーセンターに連れてきてもらい乗馬を体験させてもらったことがあるのですが、今でも月に1、2度乗馬デーを行っているようです。当時の自分は、150年以上も前にそこで始まった競馬のことや時代の大きな変化のことなど、まったく知りもしませんでしたが。

毎週土曜日に13:30から15分間やっている「にんじんタイム」は、確実に馬たちと触れ合えますのでオススメです。そこでは直接自分の手で馬にニンジンをあげられ、首のあたりを撫でることが出来ます。馬の口にニンジンを持って行く瞬間はちょっとドキドキしますが、けして噛まれたり引っ張られることなどないですし、撫でると分かる馬の肌と毛の柔らかさ、温かさたるやとても感動しました。

 

子供の頃以来ずっと、ここへ来ることはありませんでしたが、今回訪れたのには別のきっかけがありました。それは、馬の博物館で開催していた特別展「天野喜孝展 天馬」です。

天野喜孝氏は、きっと多くの方がご存知の「タイムボカンシリーズ」のキャラクターデザインをはじめ、人気ゲーム「ファイナルファンタジーシリーズ」のキャラクターデザインやビジュアルコンセプトデザインも担当された方で、国内だけでなく海外でも個展を開くなど、大変活躍されている画家です。他にもイラストレーター、衣装デザイナー、舞台美術などなど、肩書もたくさんあるお方です。

天野氏の画には、ユニコーンやペガサス、ケンタウルスをはじめ、騎馬そして馬から派生した幻の妖怪や獣のようなものまで、馬がよく登場するとのこと。今回の特別展では、そんな馬にまつわる作品のみが集められ、また新たにこの展示のために描き下ろされた作品や未公開作品が30点以上も披露されました。(第2会場JRA競馬博物館での展示も含む)

こちら(↑)パンフレットになりますが、載っているのは「Black Knight」という国内初公開の作品。高さ3m、幅2.4mもある大きな作品です。オートモーティブペイント、アクリル、アルミパネルで作られていて、このように紙面上ではかなり暗く見えてしまいますが、アクリルなので実際はもっと明るく光沢があり、発色良く、そしてその深い青色や紺色は、ところどころがスパークリングでキラキラとしています。展示室に入ってまずドドーンと目に飛び込んできたのがこの作品でした。

その他にも、恐れおののいてしまいそうになる迫力ある画や、繊細で幻想的な世界観溢れる画、がらり変わってポップ調のアートなど、たくさんの惹きつけられる作品がありました。ですがやはり、この「Black Knight」の力強く天を駆ける架空の騎馬には目を奪われ、騎士にはあまり目もくれずという感じで、いつまでも見入ってしまいました。

また、展示作品とは別モノになりますが、ポニーセンターで馬をスケッチしている際の天野氏の姿を収めた写真もそこには飾ってありまして。きっと天野氏自身、馬にとても魅了されて、こうして馬をモチーフにした多くの作品を作られたのだろうと想像すると、その逆光で黒いシルエットとなっている天野氏のスケッチ姿には深く印象に残るものがありました。

その日私は、100年以上も昔に横浜を駆け抜けていた馬たちの世界から、今日の根岸で平和に暮らす馬たち、そしてファンタジーな世界の馬たちと、思いがけず馬三昧な時間を過ごしました。こうして考えてみると、馬は太古から人と共生し、人の暮らしを手助けしてくれてきた動物で、歴史上の戦や娯楽でも欠かせない大きな存在。人間にはとてもとても馴染み深い生き物なのだと再認識しました。今度は乗馬デーの日に、馬と触れ合いにまた根岸を訪れたいと思います。 (N.I.)

 

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