ピルツジャパンのブログ「裏ピルツ新聞」

2017年4月19日更新ワシントンから横浜へ里帰りした「シドモア桜」

ワシントンD.C.のポトマック河畔で毎年3月に開かれる「全米桜祭り」。ソメイヨシノをはじめカンザンなど12種類、約3000本の桜がワシントン記念塔やジェファーソン記念館といった名所をバックに咲き誇る風景は、日本でも有名ですね。今年は、メラニア・トランプ大統領夫人がスピーチで日本への感謝を述べてくれました。

この桜は1912年3月に当時の東京市から贈られた苗木がはじまりですが、この素敵な「ギフト」を発案し、日米政府に何十年も働きかけ、ついに実現したのは一人のアメリカ人女性でした。

彼女の名はエリザ・R・シドモア。地理学者、紀行文作家であったシドモアは、1880年代に記者として来日。人力車に揺られて日本各地を訪ね、日本文化や風俗を欧米に紹介していました。なかでも隅田川の桜並木に感銘を受けたシドモアは帰国後、当時整備されたばかりのポトマック河畔埋立地に桜を植えよう!という活動を始めました。

ワシントンの市当局に桜植樹の計画を何度も持ちかけましたが、なかなか興味を持ってくれません。シドモアはあきらめず、植樹のための募金など地道な活動を続けます。

同じ頃、米農務省も「儲かりそうな植物はないか」と方々を探していて、たまたま日本の桜にも出会っていました。担当官のデイビッド・フェアチャイルドは、外国の作物に対して強い拒否感を示すことが多いアメリカ人気質に加え、「さくらんぼがとれない木は受けないかも」と思っていたのですが、まずは様子見ということで、取り寄せた100本余りの桜をワシントンの自宅庭に植えることにしました。

果たして、淡い薄桃色のソメイヨシノを実際に目の当たりにしたワシントンの人たちはその美しさに魅了されました。桜の美しさに心奪われた人たちの中で、とりわけ熱心だったのが何と当時の大統領夫人、ヘレン・タフトでした。彼女はシドモアがワシントン市に対し、桜の植樹を提案していることを知り、夫のタフト大統領に提案したところ、大統領も賛成。政府のお墨付きを得て、計画は大きく前進しました。

1909年、東京市長であった尾崎行雄や在米日本人科学者の高峰譲吉(ジアスターゼで有名ですね)などの尽力もあり、ついに桜の苗木2000本が横浜港からアメリカへ向けて旅立ちました。シアトル到着後、大陸を横断して翌年1月にワシントンに到着。ここで予想だにしないトラブルが発生します。

苗木が害虫に侵されていました。また苗木の長期海上輸送の経験もなかったため、苗木の根が短すぎて、植えても育ちそうにありません。やむなく苗木は焼却処分にせざるを得ませんでした。シドモアはじめ、関係者の落胆は想像するに余りあります。

しかし、灰になってしまった苗木とは対照的に、桜に魅せられた人々の情熱は失敗をバネに再起に向け激しく燃え上がりました。害虫に強い苗木を全国から選び抜いて、伊丹市の台木に荒川の穂木で接ぎ木をし、ガス燻蒸と仮植えを繰り返すことで、虫のつかない丈夫な苗木を作ることに成功しました。

1912年、満を持した6000本の苗木を積んだ「阿波丸」は横浜港から出航。果たして、ワシントンで開梱・検査された苗木には、害虫も病気も全く見つかりませんでした。そして、その年の3月27日、ついに最初のソメイヨシノがヘレン・タフト大統領夫人と当時の在米日本大使夫人の手でポトマック河畔に植えられました。

6000本のうち半分はニューヨーク・ハドソン河畔に植えられています。桜の寿命は70~80年と言われ、当初植えられた桜はワシントン記念塔の近くに残る2本のみとなっていますが、接ぎ木と植樹で保護が続けられ現在は約3800本にまでなりました。

なお、フェアチャイルドの庭に植えられた100本と、1912年に贈られた6000本は「横浜植木」という会社が育てた苗木でした。桜のないアメリカから初めて桜の注文が入ったことを大喜びした横浜植木は、一本10セントという破格の安値で請け負ったそうです。

ちなみに、横浜植木は2011年の東日本大震災で津波が到達した地点に桜の木を植えて未来の津波被害を防ごう!というNPO法人さくら並木ネットワークにも参画しています。シドモアはナショナル・ジオグラフィックの記者として、1896年に明治三陸大津波の被害を報道しており、不思議な縁を感じた主催者が横浜植木を訪問して、協賛が実現したとのこと。時を超えて人々の魂に訴えかける桜の美しさは、国境を越えて人々を結びつけるのですね。

ワシントンの桜祭りは1935年から始まりましたが、1941年の真珠湾攻撃を機にワシントンの桜が伐られるなどしたため、戦争中は桜祭りも中断、案内板も「東洋の桜」に表記を変えるなど、受難の時代が続きましたが、ワシントン市民は桜並木を大切に保護し続けました。シドモアは1924年に成立・施行された排日移民法に猛反発し、1925年にはスイス・ジュネーブへと移住。その3年後、スイスで72歳の生涯を終えました。

死後、日本政府の計らいで、シドモアの遺灰は外交官だった兄と母が眠る横浜山手の外国人墓地に埋葬されました。シドモアの墓石は、1991年にワシントンから「里帰り」した5本の桜の木に囲まれており、その桜から苗木を分けられた桜は「シドモア桜」として横浜の各地に植えられ、人々の目を喜ばせています。

上の写真は、横浜・元町の堀川にかかる谷戸橋のたもとにあるシドモア桜を撮ったものです。これ以外にも大倉山公園(港北区)や川和町(都筑区)などで見ることができます。目の前で花を咲かせているたった一本の桜の木、その向こうにワシントンの桜並木だけでなく100年前の横浜が見えるように感じるのは、遺跡ではない生き物のなせる業です。

シドモアが紡いだ日米の絆は、戦争という大きな苦難を乗り越え、今年105年目を迎えました。「里帰り」した桜の木の下で、彼女もきっと目を細めていることでしょう。

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