ピルツジャパンのブログ「月刊 裏ピルツ新聞」

2016年10月19日更新「道」は続く

Forked road

ある夜、音楽番組をたまたま見ていたら懐かしい顔が画面に現れました。それは紛れもなく宇多田ヒカルさんでした。6年間の沈黙を破って9月末にニューアルバムをリリースするというニュースは聞いていましたが、しばらくぶりに見た彼女は若い頃のお母さんにそっくりで、以前のイメージとは変わって見えました。それもそのはず、最新アルバムのタイトルは「ファントーム」(フランス語。直訳すると幻)。今は亡き母、藤圭子さんがこのアルバムの核となっています。アルバム発売の数日後には、日本だけでなくアメリカやフランスでもiTunesのダウンロードランキングで上位に入るという快挙は、プロモーション担当者や本人すら想定していなかったようです。

17年前、彗星のごとく日本の音楽シーンに現れて数々の記録や伝説を残してきた彼女ですが、6年前に「人間活動」のため活動休止宣言をして突如表舞台から姿を消しました。若くして芸能界で成功し、社会経験を積むことなく大人になってしまった彼女は、普通の人が普通にできる買い物や家事などが満足にできない自分に気づき、その状況をなんとか脱却したかったのかもしれません。

デビュー当時を振り返ってみると、15歳にしてAutomaticFirst Loveという完成度の高い曲を書き、とてもティーンエイジャーとは思えない抜群の表現力で歌う少女とはいったいどんな音楽を聴き、どんな環境で育ったのだろうと不思議に思ったのを覚えています。とは言え、当時私は育児と仕事に翻弄される毎日で、断片的な情報や時々ドラマのテーマソングやCMで耳にする彼女の歌声しか今まで知りませんでした。今回のこのテレビ番組での再開がきっかけとなり、彼女について調べてみることにしました。

ヒッキーこと宇多田ヒカルさんはソロデビューする前、ニューヨークで両親と家族3人のユニットU3 を結成し、9才の時すでにCDで歌手デビューしています。その後Cubic Uとユニット名を変更して、98年(ソロデビュー約1年前)には本人が作詞作曲に関わり、メインボーカルとして参加するPreciousという代表アルバムを発表しています。

当時の曲は70年代の黒人のソウルミュージック(ゴスペルやブルースをルーツとする黒人のポップス)と白人がそれを“焼き直した”R & Bをミックスしたような曲調で、今の彼女の作風につながる要素が感じられます。ロバータ・フラック[おすすめ曲Killing Me Softly(邦題:やさしく歌って)]やジャクソンファイブ時代のマイケル・ジャクソン[おすすめ曲I’ll be there]なども彷彿とさせる即興やフィーリングを重んじる黒人音楽の影響が目立ちます。

わかりやすく言うとイェイェイェイ….やハァアーア…などの「小節」が入り、メロディーラインもその場の気分で多少変わります。カーペンターズが歌って大ヒットしたClose to You(邦題:遥かなる影)[←イチオシ曲]をR & B風なアレンジと歌唱法で歌った録音がこのアルバムの中ではマイベストです。この頃から彼女のトレードマークでもある高音を喉の奥から絞り出すような苦しそうな発声で歌っています。また海外での販売を想定していたため、この頃の曲はすべて英語の歌詞で歌っています。

その後日本でCubic UのCD録音中に、音楽ディレクター三宅彰氏に才能を見出され、日本でソロデビューしてからの活躍は多くのみなさんもご存じの通りですので割愛します。

さて、6年間の活動休止期間はと言うと、活動中の卵巣や喉のポリープの手術、そして離婚というつらい経験を経て、しっかりと休養するはずでしたが、その間にも思いもよらぬ母の自死というさらに大きな試練がありました。しかし、仕事に多忙でそれまで体験できなかった青春を体験できたことや、一般のイタリア人男性との再婚、そして第一子出産というポジティブな出来事もありました。そしてそれらがあったからこそ、音楽活動を再開できたそうです。

私はこの番組の最後に紹介された「」という曲が頭から離れなくなり、ダウンロードして何度も聞いています(Suntory天然水のCMで使用されている曲です)。一言で言うと、3年前の突然の母の死を乗り越え、また歩き出そうと決意した彼女の心境を綴った曲です。歌詞の随所に亡き母への思いや、母からそして自ら学んだこと、これからの人生をしっかりと歩んでいこうとする彼女の思いが散りばめられています。生で歌う姿を見て、この曲に込める彼女の思いが痛いほど伝わって来ました。何度聞いても同じ箇所で涙がこぼれそうになります。

「道」はこのような裏話をまったく知らなかったとしても楽曲の素晴らしさだけで成り立つ曲ですが、彼女の人生のストーリーを知り、この曲が余計好きになりました。偶然ですが、私も母を2年前に亡くしました。誰にとっても母の存在は特別であり、亡くして初めてどんなに自分を支えてくれていたのか気づくものです。「一人で歩いたつもりの道でも始まりはあなただった…」と彼女は歌います。姿形はもうなくても、自分の歌の中に母はいつまでも生き続けることを彼女は“You are every song”と表現します。

私も幼稚園の時、母が修道院で開かれた英会話教室を見つけてくれなかったら、母が留学に猛反対する父を説得してくれなかったら、渡米することもなかったな、と今更ながら道を開いてくれた母への感謝の気持ちが込み上げてきます。

難度の高いこの曲を彼女は切なく、そして歌詞も音符も完全に自分のものにして歌います。絶妙なタイミングで入るドラムのビート、メインの旋律と完璧に調和した自身による英語のバックコーラス、語るように歌う中間部分から高音域のまま突っ走るサビまでテンションが途切れることはありません。私が個人的に気になっているのはバックで入る”One two”という掛け声と唸るような合いの手の部分です。この声が藤圭子さんの声にそっくりなのです。母娘なので低い音域の声が似ているのでしょうか? それとも以前の録音から切り取ったか、或いはサンプリングして音声交換などのテクニックを使ったのかもしれない…などと妄想してしまいます。

この曲と出会い、彼女のアーティストとしての歩みを知ることができたのも何かの縁だと思います。ヒッキーには無理せずに、仕事も家庭も両立して幸せになって欲しいです。グラミー賞を受賞したイギリスの女性歌手Adeleと比べても引けを取らないメロディメーカーとしての才能。あの井上陽水さんも褒める歌心のある詞のセンス。独特の切ない歌声と表現力を駆使して聴く者を魅了するパフォーマンス。三拍子そろった音楽家としての才能にさらにこれからも磨きがかかることでしょう。これから先、彼女が音楽家として、また一人の女性としてどんな道を辿っていくのか、母のような気持でドキドキワクワクしながら見守っていきます。

記事一覧

ページの先頭へ戻る